Beautiful Dreamer(3)

黒木の車は、混雑した都内の道路を抜けて、国道をひた走っていた。
車を運転しないのだめには、黒木がどこに向かってるのか見当もつかない。
しかし、黒木に行き先をを訪ねようともせず、流れていく車窓の景色をぼんやりと眺めていた。

(結婚できない、って……)

黒木に告げられた時は、頭が真っ白になりながら、何とか平静を装ったものの、何度も心の中で事実を反芻するたびに、気持ちが沈んでいく。

(家族も、みんな喜んでくれてたのに、なんて言おう……。
 もっとも、よっくんだけは、半信半疑だったみたいだけど――)

のだめは教育実習で実家に帰った時に、黒木がいかに優しくて立派な人物であるか、自慢げに吹聴していた。
のだめの両親は『とりあえず教師になれなくても、嫁ぎ先が決まっている!』ことに安堵したようだ。
実の両親が一番、のだめが教師になれるとは信じていなかった。

(別に、別れるとかじゃないんだし、黒木くんが夢を見つけたことを、喜んであげないと!
 でも、結婚したら、黒木くんの家族に隠れてつき合わなくてもよくなると思ってたのになあ……)

「はぁぁ……」

平静を装っていたのだめだが、考えごとに没頭していくにつれ、ついため息を漏らしてしまった。

「恵ちゃん、お腹空いた?」

それまで、無言でハンドルを握っていた黒木が、ようやく口を開いた。
黒木は、のだめが機嫌が悪かったり元気がないと、必ず食事の話をする。
大体はそれで当たっているのだが、今ののだめには、その呑気な問いかけがカチンときた。

(あんな話の後にため息ついて、どうしてお腹が空いてると思うワケ?!)

「別にっ!黒木くんは?」
「食欲なんてないよ。ただ、もう夕方だから」
「そういえば、急に暗くなってきましたね。――ところで、どこに向かってるんデスか?」
「実は、何の考えもなしに走ってて、つい、いつもの通学路を――。もうすぐ、うちなんだ……」
「ええぇっ!」

まさか、このまま黒木家に連れていかれてしまうのか?!
突然で心の準備も出来てないし――と黒木を振り返ると、黒木はわかってるという風に頷いた。

「いや、もちろん君を連れて、家に帰るなんてしないよ」
「そ、デスよね。隠れてつきあってる彼女をいきなり連れてこられたりしたら、お母様がびっくりしますね。きっと!」
「……」

(あぅぅ。この言い方じゃ、嫌味に聞こえた?
 でも、のだめは家族にも話してるのに、黒木くんはそうじゃないし――。
 会わせないのが当然なんて、実は最初から、結婚なんて本気で考えてないんじゃないの?)

本気で疑っている訳ではないが、無言の黒木には見えない壁があるようで、悪い方へばかり考えがいってしまう。
黒木が黙り込んで顔色一つ変えないのも、のだめにはまた悔しい。
落ち込んだり、腹を立てたりと思い悩んでるのは、自分だけみたいだ。

「このまま、行ける所まで行ってみようか?」

黒木が低い声で、ぼそっと呟いた。
淡々とした言い方なのに凄みがあり、思わずのだめはハッと黒木を見あげた。

「行けるとこまでって……どこ?」
「高速に乗れば、日本海だって見に行けるよ?入口もすぐそこだし」

黒木は前を見つめたまま、心なしかアクセルを踏んで加速したようだ。
前方には、高速道のインターチェンジが近付いていることを知らせる緑色の標識。
行き先を考えずに運転していることといい、どうも黒木の様子がおかしい。
このまま高速道路に乗って、本気で日本海側を目指しかねない。

「く、黒木くん……。日本海は、ちょっと、遠いんじゃあ……」
「関越道なら新潟まですぐだよ。北陸道に乗り換えて、その辺りの温泉に行くのもいいね……」
「わぁ、温泉!――いやっ、でも!おうちの人になんて言う気ですか!」
「そんなこと、どうだって、いいよ」

温泉には心ときめいたのだめだったが、黒木の投げやりな言い方にギクっとした。
黒木は、普段は冷静そのものなのに、稀にのだめ以上に常軌を逸することがある。
とにかく、いつもと違う黒木を高速道路に乗せるのはマズイ、と焦るのだめ。
とっさに、口を手で覆って、一芝居うった。

「黒木くん!なんか、気持ち悪い……」
「え?ひょっとして、車酔い?吐きそう?」
「大丈夫……今はまだ……ちょっと停まってもらって、外の空気を吸えば落ち着くと思うんですケド……」
「わかった!車を停められるところまで、もう少し我慢して!」

のだめの嘘を真に受けた黒木は、高速の入り口から遠ざかる方へ車線変更した。
安心したのだめは、のりだしていた体を脱力させ、シートに深くもたれかかった。



国道から脇道に入った黒木は、迷いもなく細い道を幾度か曲がり、人気のない河川敷の道端に車を止めた。
空に浮かぶ大きな満月の光で、川面がキラキラと反射している。

「恵ちゃん、まだ、気持ち悪い?自販機でお茶でも買ってくるよ」

のだめをベンチに座らせて行ってしまおうとする黒木を、のだめは腕を掴んで引き留めた。

「もう、大丈夫デス。それより、1人にしないで」
「うん……」

のだめから少し間を空けて、横に腰かける黒木。
のだめが体を寄せてもたれかかると、黒木はのだめの腰に腕を回し抱き寄せた。
触れ合う体のぬくもりが、不安でささくれ立っていたのだめの心を鎮めていく。

「黒木くん、ここにはよく来るの?」
「うん、以前はランニングで毎日。最近は暇がなくて、ずいぶんサボっちゃってるなあ。合唱団の練習も……もう声が出ないかも」
「のだめも。試験終わったのに、練習ずっと行ってないし、萌ちゃんに怒られちゃう!」
「僕も高橋くんに言われるだろうな。2ステでソロの箇所もあるのに」
「ああ、定演のフォスター名曲集!のだめも2曲ソロで歌いマス!」
「4年生だからって、遠慮する奴じゃないし、仕上がってないと何言われるか……」
「そうでしょうねえ。5年生の峰くんにも、容赦ないデスもん」
「まあ、それくらいしっかりしてると、安心して卒団できるけどね。実際、レベルは高くなったよ。部員も増えて賑やかになったし」

現学生代表の玉木は、合唱の実力では目立たなかったが、プロデュース力はなかなかたいしたものだった。
指揮者の高橋、ソプラノ、アルトのパートリーダーの鈴木姉妹などのビジュアル面を全面に押し出した新歓活動で新入生の関心を引き、団員確保に大きく弾みをつけた。
もちろん、合唱コンクール全国大会常連校になった実力があってこその結果だが。

「それでも……昔はよかった!って思っちゃいマス。――って年寄りみたいデスね?」

以前と変わらない団行事も、半ば隠居状態だと色あせて見える。
のだめにとっては、千秋真一が正指揮者で、峰が学生代表の時が、合唱団の黄金時代だったから。
それは、自分が内務として必死に仕事をしていた時期でもある。

「その気持ち、よくわかるよ。僕も、合唱団と恵ちゃん中心の生活だったあの頃に戻りたい。
 ――でも、いまさら、戻れないんだ。それが、つらい。
 だから、現実逃避で遠くに行こうなんて言ってみたけど、結局それは、逃げてるだけだ」

苦々しく黒木が吐き捨てたその表情は、のだめがハッとするほど陰鬱だった。

「黒木くん……?」
「君さえいれば――夢なんか捨てたっていいと思ってる。でも、それを君のせいにはしたくないんだ。かといって院に進学したら、結婚もできるかどうか――」
「なんで、そうなるの!別に卒業したって、今まで通り恋人でしょ?!」
「授業と研究で、今より忙しくなるし、博士課程終了まで、5年もかかる。しかも、その後、就職できるとは限らない。
 そんな僕に、君を縛り付ける権利なんかない――」
「黒木くん!」
「君なら、いくらでもいい出会いがあるはずだ。僕でなくても――」

バチーン!

のだめは力いっぱい、黒木の頬をひっぱたいていた。

「しぇからしかぁ!ばかやないん!」
「は?」

いきなり頬を張られ、耳慣れぬ言葉で罵られた黒木は、頬に手を当てて固まってしまった。
そんな黒木の顔を、のだめはぐいっと自分の胸に引き寄せて、抱きしめた。

「のだめと別れようったって、そうはいかないデスよ!前みたいな辛い想いは、もうコリゴリです!」

のだめは、以前すれ違ってしまった夏のことを思い出して、顔をゆがめた。

(昔がよかったって言っても、あの夏だけはイヤ!今でも、こんなに、胸が痛い……)

わしわしと黒木の漆黒の髪をかき乱すと、黒木はのだめの胸に顔を埋めたまま、のだめにしがみついてきた。

「僕だって!君と別れるなんて、絶対嫌だ!でも、こんな情けない男で、呆れただろ?」
「呆れたけど、いつもはしっかりし過ぎなくらいなんだから、たまにはいいんじゃないデスか?
 もう二度と、あんなこと言わないなら、許してアゲマス」
「うん――ありがとう。やっぱり僕は恵ちゃんがいないとダメだな」
「のだめ、いつまでも待ちますから。嫌なこと、考えないで」
「うん」

黒木が顔をあげて、のだめの顔を下から覗き込む。
いつも冷静で隙のない黒木が、まるで従順な子犬のように、弱みをみせて甘えてくる。
のだめにとって、こんなに支離滅裂な黒木は初めてだが、いつもとのギャップに、のだめの心がゾクリと震える。

(やだ、なんか、カワイイ!こんな風に弱みを見せる黒木くんって、初めて!)

ほとんど衝動で、心の奥底に秘めた気持ちを口走った。

「やっぱり……待てないデス――」
「えっ?」

ハッとして顔をあげる黒木の腕から体をよじって逃れると、のだめは黒木と向かい合った。

「いつになるかわからない結婚なんて、待てない!今すぐ……欲しい。黒木くんが」

結婚まではと我慢していた最後の一線を、守るのはもう苦痛だった。
知らなければ、まだ我慢できたかもしれない。
でも、肌を合わせて愛撫で快感を得てしまった体には、踏み込めない禁忌がもどかしくてならない。
黒木の意思を尊重して、ものわかりのいい振りをしていられたのも、卒業までという期限があったからだ。

「僕もだ。実は温泉に行こうと行ったのも……下心があったんだ」
「なら、今夜――黒木くんの妻にして」

黒木の手をぎゅっと握ると、黒木も五指でのだめの指を絡め取った。
指をなぶられながら熱い眼差しで見つめられ、崩れていくのだめの理性。
鼓動が早鐘を打ち、黒木の指が全身をたどる感触を思い起こして、体の芯を火照らせる。

「行こう。どこか、2人きりになれるところへ」

情欲にかすれた声の黒木が、のだめの手を引き立ち上がらせた。

のだめにとって、この世界には黒木と自分だけしかいないも同然だった。
黒木ものだめのことしか眼中になく。
だから2人は、背後から近づく足音にも、全く気付いていなかった。

「おーい、泰則じゃないのか――」
「と、父さん!」
「!!!」

弾かれたように握った手を離す、黒木とのだめ。
振り返ると、中肉中背の中年男性が河原の土手をゆっくり降りてくるところだった。

(この人が、黒木くんの、お父さん?)

グレーの背広を着た姿は、真面目な公務員風で、記憶に残らない地味なタイプの人だ。
しかし、じっとこちらを見つめる視線は、隠し事などすべて見透かしてしまいそうなほど怜悧だ。
顔立ちはあまり似ていないが、雰囲気は黒木によく似ていた。

「お前の車が止まっていたから見に来たんだが、こんなところで、何してるんだ?」
「いや、彼女が車酔いしたみたいで気分が悪いっていうから、外の空気を吸ってたんだ!」

自分に話がふられて、のだめは慌てて挨拶した。

「野田恵デスっ!泰則さんには、大学の合唱団でいつもお世話になってマス!」

ふかぶかと頭をさげて、ようやく顔をあげると、黒木父も軽く頭をさげて「こちらこそ」と鷹揚に答えている。

「気分はよくなりましたか?」
「ハイっ!もう、すっかり!」
「休むなら、こんな冷える河原じゃなくて、うちにおいでなさい」
「ええっ!いえ!あのっ!突然お邪魔するわけには!」

のだめは予想外の展開に目を丸くして、黒木に目で助けを求めた。
黒木の実家には、息子の交際に大反対の母親がいるというのに、心の準備がないまま行けるわけがない。
ましてや、まさに今たぶらかして一線を越えさせようとしていたところだ。

「父さん、もう夜ですし、うちに来るのはまた今度に――」
「夜にこんな田舎まで連れてきて、もてなさずに帰すなんて失礼だろう。
 だいたい、うちに来る目的じゃなきゃ、何でこんなところに連れてくるんだ?」
「いや……それは……」

まさか、ぼーっと走ってたら通学路で、しかも日本海側に逃避行しようとしてたという訳にもいかず、口ごもる黒木。
こんな時に、とっさにもっともらしい嘘を言えないのが、黒木の弱点だ。
しかし、のだめにとっては、そんな不器用なところも好ましいのだが。
黒木が口をつぐんだので、黒木父は、ポケットから携帯電話を取り出し、電話をかけだした。

「あ、母さんか。今うちのすぐ近くにいるんだが――。うん、泰則が友達を連れて来てるんだ。
 うん、1人。食事の用意を頼む――。ああ、寿司でもとればいいんじゃないか」

電話口から、困惑したような甲高い声が漏れてくる。
突然の来客は、どこの主婦でも嫌なものだろう。

(ひぇぇぇ!ナニコレ、強引な!)

彼の母親と初めて対面するのに、これ以上はないというくらい最悪のシチュエーション。
黒木父は、電話をかけ終わると、「では、また家で」と一言言い置き、さっさと行ってしまった。
あとに残された黒木とのだめは、硬直して立ち尽くす。
秋の風がススキを揺らし、欲情で火照っていた体を一気に冷やした。


- continue -

【2013/05/08】

放置しすぎて、1年半以上経ってしまいました……orz。しかも、4話に続きます。
一応、卒業でこのシリーズは終了しようと思っているのですが、考えているラストは、卒業後も続きます。

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