Beautiful Dreamer(4)

黒木は、小さい頃から、両親に甘えた記憶がない。
だから今でも、家族なのに敬語で会話をする。

黒木の父は考古学者で、大学の教授をしている。
黒木の小さい頃は、全国の遺跡発掘現場を飛び回って不在がちだったので、今でも近寄りがたい感じがする。
唯一の接点は、剣道だ。
もともと黒木が剣道を始めたのも、有段者の父に、手ほどきをしてもらったことがきっかけだった。
黒木は、めったに竹刀を握らない父に、なぜか勝てたことがない。
たまに手合せしても、悠然と構えているのに隙がなく、いつも一本取られていた。
いつか勝ちたいと小さい頃から練習に励んで、努力の成果で高校の県大会で優勝できるまでになったが、それでも父には敵わなかった。
大学に入学したのを契機に剣道から離れたのは、父との力量の差に諦めを感じてしまったせいもある。

黒木の母は、父の不在を補うべく厳しい人で、言いつけに背こうものなら、ぴしゃりとやっつけられた。
しかし、その気性とは裏腹に、夫に口答えする姿は見たことがない。
黒木の父とは幼馴染で、幼いころに親同士が結婚の約束を交わしていたという。
そのなれ初めからして、封建的な印象を受ける。
口癖は、「お父様を見習いなさい」、「お父様なら、そんな馬鹿げた事はなさらないわ」だ。
そんな家風で育てられた黒木は、ひたすら自己を律するのが習い性になってしまった。

しかし、のだめと出会ってから、黒木の調子が狂っていく。
のだめの物怖じしない性格が、頑な黒木の心の壁を易々と乗り越え、無防備な心にどんどん入り込んでくるのだ。
殻を壊され感情を上手く制御できなくなった黒木は、嫉妬したり、くよくよ悩んだりと、自分でも呆れる体たらくになってしまった。
しかし、のだめはそんな黒木をありのまま受け入れて、認めてくれた。
無条件に愛されることが初めての経験だった黒木は、その慈愛に満ちた腕(かいな)の温もりに酔いしれた。
黒木がのだめとの結婚を急ぐのも、ありのままの自分でいられる居場所が欲しいからかもしれない。

これは、愛なのか、依存心なのか――。
それに男の欲望も加わり、黒木はのだめを狂おしいほど渇望していた。

「急にこんなことになって、ゴメン……」

自宅の玄関までのだめを連れてきた黒木は、立ち止まってのだめに謝った。
本音では、このまま2人で逃げてしまいたい。
黒木の父さえ現れなければ、今頃2人は離れがたく結ばれるはずだったと思うと、今でも後ろ髪引かれる思いがする。

しかし、緊張で顔を強張らせていたのだめは、黒木ににっこり笑いかけた。

「嬉しいデス。やっと、黒木くんのご両親にちゃんとご挨拶できるから」

そう言うと、のだめは励ますように黒木の指先をきゅっと掴む。
黒木はのだめの笑顔が愛おしくて、思わず抱きしめたいくらいだったが、なんとか手を握り返すだけで我慢した。

「やっぱり僕には、恵ちゃんがいないと、ダメだな」

黒木は、どんな手をつかってでも、両親にのだめとの交際を認めてもらう強い決意をして、玄関の戸を開けた。



黒木達は、出迎えた黒木の母に案内されて、奥の和室に入った。
そこには、普段着の着物に着替えた黒木父がくつろいでいた。

「いらっしゃい。まあ、座ってください」

大きな木の座卓には、卓上コンロに出汁を張った鍋が載せられており、材料が大皿にきれいに盛り付けられている。
突然の来客で、苦肉の策として鍋を用意した母の苦労がしのばれる。
黒木とのだめは、黒木の父に向かい合って並んで座った。
黒木母は夫の隣に座り、鍋に具材を投入したり、夫に酒のお酌をしたりと、かいがいしく動いていた。

夕餉の食卓は、緊張感を孕みつつも、なんとか会話が弾んでいた。
しゃべっているのは主に黒木の母で、のだめにあたりさわりのない質問をして、のだめがそれに答える流れだった。
黒木の父は、日本酒をちびちび飲みつつ、2人のやりとりを黙って聞いている。
黒木は、2人の交際のことをいつ切り出そうかとヤキモキしながら、キッカケを伺っていた。

「泰則さんが、女の子を家に連れてくるなんて初めてだけど、どういう仲なのかしら?」

のだめの年齢、出身、家族構成、進路先などあらかたのデータを取得したところで、とうとう、黒木の母が核心を突いてきた。
黒木はのだめと顔を見合わせた後、母に向かって挑むように宣言した。

「実は、恵さんと結婚を前提につき合ってます」
「まあ……!驚いたわ。そういう人がいるなら、すぐに紹介するように前から言っていたでしょう?」

努めて平常を装っているが、黒木母の口元が震えている。

「隠していて、すいませんでした。全部、僕の責任です」
「あなたが、いつも帰りが遅いのも……そのせいなの?」
「それは違います!本当に研究で忙しいんですよ!そういうつまらない邪推が嫌だから、言いたくなかったのに!」
「でも、まだ学生なのに、いきなり結婚を前提とか言い出すなんて。まさか、泰明さんのようなことを――?!」
「僕は、兄さんとは違う!」

トン。

黒木の父が空になった酒の猪口を机に置いた。
大きな音ではないのに、声を荒げていた2人は、思わず口をつぐんだ。
黒木の母は、泰則そっちのけで、父親の杯を慌てて酒で満たす。

「素敵なお嬢さんとお付き合いできて、よかったじゃないか」

黒木の父は満たされた杯を持ち上げ、くいっと口に運ぶ。
一瞬で、会話の主導権は黒木の父に移ってしまった。

「はい。彼女は僕にとって、何ものにも代えがたい人です」
「いいかげんな交際よりは、結婚が前提の方がいいだろう。でもいきなり聞かされたら、そりゃ驚くさ」
「それは……反省してます」

箸を置き、黒木は母に深く頭を下げる。
のだめは不安そうに黒木とその親を交互にみやり、黒木父は黙って酒の入った猪口を干した。
気を取り直した黒木の母が、夫の杯に酒を注ぎながら、口を挟む。

「結婚を前提って言っても――。就職して落ち着いてから考えればいいでしょう?」
「そのことなんですが――。実は、就職の内定を断って、大学院に進学したいんです。
 今の研究室でどうしても続けたい研究があるので。許してもらえませんか」

黒木は話しながら、視線を父親の方に向けた。
父も大学院に進学してそのまま象牙の塔の住人になったのだし、反対されるとは思っていなかった。
しかし、院生の間の学費・生活費を頼る以上、形だけでもお伺いを立てておかねばならないだろう。

「今からで、院試に間に合うのか?」
「後期試験が2月にあるそうです。教授の推薦もあるし、ほぼ確実に入れると思います」
「まあ、安易な気持ちではないんだろうし、行きたいなら行けばいい。恵さんとのことは、どうする気だ?」
「僕が学生のうちは、結婚は無理かと……。恵さんは、僕が独り立ちできるまで待つと言ってくれました。
 だから、僕たちの交際を認めて下さい!」
「ふぅん……」

黒木の父は、のだめを値踏みするように、一瞬独特な眼光をひらめかせた。

「恵さんは、本当にそれで、いいんですか?」
「ハイ。泰則さんがせっかくやりがいのある夢を見つけたのだから、応援したいと思ってマス!」

のだめは黒木の父の鋭い眼光に圧倒されながら、ソツなく答えた。

「恵さんがいいなら、私達が交際にとやかくいうこともない」
「でも、お互いまだ若いんだから、軽はずみなことはしないでね」

諭すような母親の口調に、黒木は眉をしかめた。

「お言葉ですが、お互いもう20歳も過ぎてるのに、そこまで口を出されたくはないですね」
「だって、あなた、まだ当分学生なんでしょう?不始末をしでかしても、責任が取れないじゃない!
 お父様に迷惑をかけることは許しませんよ!」
「不始末とかいう言い方は止めて下さい!まるで愛し合うのが悪い事みたいだ!」
「甘いわね!あなた、恵さんのご両親の前でも、同じことが言えるの?」

腹立ち紛れに叫んだ黒木に、容赦なく突っ込む母親。
のだめの親のことまで持ち出されては反論できず、黒木はぐっと奥歯をかみしめた。

「あの〜」

次第に険悪になっていく2人の間に、暢気な声でのだめが割り込む。

「うちの親は、結婚前提の付き合いも承知してマスし、むしろ大喜びなので、ご心配いただかなくても大丈夫デスけど……」
「そうは言っても、嫁入り前の娘が妊娠して、嬉しい親がいるはずないでしょう?」

黒木の母が、のだめにピシャリと言い返す。
黒木は、『あの』母にのだめが反論しているのに驚いて、血の気が引いた。

「赤ちゃんが授かるのは、オメデタイことだから、みんな喜ぶと思いますヨ?」
「実際には喜んだとしても外聞が悪いでしょ!結局は親の恥になるんです!」
「なら、結婚します。今すぐ」
「え!」

のだめは居住まいを正すと、畳に手をつき、黒木の両親に向かって頭を下げた。

「泰則さんとともに、幸せな家庭を築きたいと思っています。
 まだまだ未熟な2人ですが、結婚をお許しいただけませんか。
 泰則さんが学生の間は、私が働いて支えます」
 
のだめが頭を上げると、黒木家の面々は突然の結婚申込みに、茫然としていた。
黒木は、嬉しいより、常識をまるで無視したのだめの行動に恐れをなしていた。

「あ、あなた、一体、何言ってるの……」

案の定、黒木の母は、信じられないものを見るような目でのだめを見ている。
これで、交際さえも反対されるだろうと、黒木は目の前が真っ暗になった。
しかし、黒木の父は、面白そうに口元をほころばせた。

「いいでしょう。不肖の息子ですが、差し上げますよ」
「ありがとうゴザイマス」
「じゃあ、せっかくめでたい日だから、みんなで飲みましょう。母さん、お酒を――」

空になった徳利を持ち上げた夫に、初めて妻が反抗した。

「あなたっ!こんなでたらめなやり方、認めるつもりですか!」
「いいんじゃないか。恵さんの真剣な気持ちは伝わってきたし」
「だって、女の方から結婚の申し込みなんて――」
「世間一般では珍しいのかもしれないね。私も、ゆきえ以外に知らないし」
「!!!」

黒木の母は、顔を真っ赤にすると、空になった徳利をひったくるように掴んで、部屋を出て行った。
黒木は、普段落ち着いて上品な母がそこまで取り乱す様を見るのは初めてで、あっけにとられた。

「あの、父さん……。ゆきえって、確か、母さんの名前だったよね?」
「ああ。私が甲斐性がなかったせいで、彼女に言わせてしまった。お前も、こんなところ、似なくてよかったのに――」

黒木の父が肩をすくめる。

「あの、母さんが……?信じられない!」
「素敵な奥様ですねー」
「本当に、私には過ぎた妻ですよ」

しかつめらしく、少々煙たく思っていた父が、のだめと笑いながら語らっている。
それも、妻のノロケ話で!
そして、古風でお堅いと信じていた母が、のだめさながらの行動をして、父と結婚していたとは!
一体、自分は今まで、両親の何を見てきたんだろう……。
黒木が、脳内に飛び交う処理しきれない疑問符の山に思考停止していると、目の前に小皿が差し出された。

「はい、黒木くん!お鍋煮えてるから、どんどん食べて!」
「あ、ありがとう……」

黒木は、皿を受け取ると、まじまじとのだめを見つめた。
いかめしい雰囲気の黒木家さえ変えてしまう、溢れんばかりのバイタリティが、目に眩しい。

(もし、この世に神が存在するのなら――。
 毎日だって、感謝しよう。
 彼女と出会せてくれたこと、彼女と人生を共に過ごすことができる奇跡に――)
 
「黒木くん、どうかした?」

黒木が、皿に手もつけずに自分を見つめているので、のだめは首をかしげた。

「泰則は、恵さんに見蕩れて、食べ物も喉に通らないようですな」
「まあ、お父様ったら!」

父親に冷やかされても、気恥ずかしいとも思わない。
正直、のだめ以外は、もう眼中にない黒木だった。

「ありがとう、恵ちゃん。本当に、ありがとう」

話したいことはいっぱいあるけど、黒木がなんとか口に出せたのは、のだめへの感謝の気持ちだけ。
のだめは黒木の気持ちを解っているのかいないのか、「どーいたしまして!」と満面の笑みで応じた。



- continue -

【2013/05/18】

最初の設定よりツンデレになってしまった黒木夫妻。そして5話へ続きます――。

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