Beautiful Dreamer(5)

「はふぅ……。いいお湯!」

のだめは、総檜のゆったりとした浴槽で、目いっぱい足をのばしてくつろいだ。
ひのきのいい香り、木のやわらかな感触。
アパートの狭いユニットバスとは大違いのお風呂を、心行くまで堪能する。

「なんか、別世界って感じ……。黒木くんのうちって、お金持ちなんデスねー」

破格のお小遣いをもらっていることから、お金に余裕がある家なのだとは思っていたが、これほどとは思っていなかった。
門構えからして立派で、圧倒的な歴史と風格を感じさせる平屋建ての和風家屋。
どうやら、地元では名士の家柄らしい。

「お風呂に案内してもらうだけで、うちより広かったなあ。お母様達が来月大川にきたら、全部玄関とか思われて、うちを通り抜けたりして……」

酒を運んできた黒木の母はすっかり平静を取り戻していて、都合があえばすぐにでも、のだめの実家に挨拶に行く、と言い切った。
黒木の父が結婚を認めた以上、できるだけ早く式を挙げさせて、肩の荷を下ろしたいらしい。
のだめも黒木も、新学期が始まってから休みを取るのはとても無理なので、できれば4月になる前に、式を挙げてしまいたかった。

みんなの思惑が一つになって、挙式は黒木の院試後、3月がいいだろうと意見がまとまった。

『ただし……』

黒木の母が、重々しい声で言い足した。

『泰則に、嫁の財布を当てにした生活させる訳にはいきません!
 これだけは譲れないわ。うちにお金がない訳じゃなし!』

黒木の母は、のだめが黒木を経済的に支えるのだけは、どうしても避けたいようだった。
結局、黒木が父から生活費を借り受ける形にして、将来的には返済する取り決めになった。

自分で結婚を申し出ておいてなんだが、のだめにはまだ結婚する実感が湧かなかった。
黒木の母が結婚までの段取りを決めていくのも、なんだか他人事のように聞いていた。

「結婚したら、黒木恵になるのかぁ。名前が変わっても、ちゃんと返事できるようにしておかなくちゃ。
 黒木センセイかぁ。ぐふふ……」
 
温かい湯に身も心も委ねて、のだめの妄想は果てしなく広がっていった。




酔っ払っている上に長湯をしたせいで、のだめはすっかり茹だってしまった。
ぼうっとした頭で脱衣カゴを探すと、脱いだ服は消えていて、代わりに真新しい浴衣と新品の下着が用意されている。

「あれ……服がない……」

バスタオルを巻きつけた状態で、とりあえず下着を手に取る。
のだめが大手スーパーで購入する3枚いくらのショーツとは大違いの、上品で高級そうなショーツ。

「これは……シルクでは……」

勝手に身に着けてしまっていいものか戸惑っていると、ほとほとと外から戸を叩く音がした。

「恵さん……あがった?」
「ハイっ!」

黒木の母だとわかったのだめは、見えもしないのに思わず姿勢を正す。

「勝手でしたけど、お洋服洗濯してますから。私の買い置きで申し訳ないんだけど、その下着を着てくださる?
 新しいものだし、サイズも合うと思うから――」
「あ、ありがとうゴザイマス……。いろいろと、すいません」
「いいのよ。泊まっていくよう無理を言ったのは、主人の方なんだから。着替えたら、お部屋に案内するわ」
「は、ハイっ!ただ今!」

のだめはあわてて下着を身に着け、浴衣を羽織ると脱衣場を出た。
待ち受けていた黒木の母を間近に見て、本当に綺麗な人だと、あらためて凝視してしまう。
凛とした風情、整った顔立ちは、年齢を感じさせない。
肌は肌理細かく色白で、まとめ髪にした黒髪の艶やかさとの対比が鮮やかだ。

「わたくしの顔に、何かついてる?」

黒木の母が、いぶかしげにのだめに尋ねた。
のだめは、つい思った通りに、答えた。

「あんまりにもお綺麗なので、つい目がいっちゃって」
「まあ……。馬鹿げたことを……」

不機嫌そうに呟いて、黒木の母はのだめに背を向け歩き出す。
しかしのだめはそんな黒木の母の反応を見ても、恐縮したりはしなかった。
なんとなく、この母の反応は懐かしい感じがする。
口では文句を言っていても、実は世話好き――という……。

(あー!千秋センパイだ!)

ようやく思い当たって、のだめは思わずポンと手を叩く。
そういえば、先輩にも入浴中に服を洗われたなぁ……と、懐かしく思い出す。
愛情表現が不器用というか、照れ屋さんなのだろうと思うと、ふふと笑みがこぼれる。

「――わたくし、容姿を褒められるのは、苦手なの。いつも、身の置き所がない恥ずかしさを感じるわ」

黒木の母が、先ほどのそっけない物言いをとりなすように、のだめに背を向けたまま呟いた。

「お父様は、口に出して褒めたりしないデスか?」
「言わないわ……。そういう人だから、よかったの」
「ふーん。でも、さっき褒めてましたよ。私には過ぎた妻だって――」
「本当に?!」

ぱっと振り向いたその顔には、花がほころんだような笑みが浮かんでいた。
先ほどまでの冷ややかさとは大違いの、少女のような初々しさにのだめが見蕩れていると、黒木の母はすぐ元の表情を取り戻して、のだめに背を向けてしまった。

「どうして、そんな話になったの?」
「素敵な奥様ですねって褒めたら、そうおっしゃってました」
「そう……」

ほんの一言だが、のだめには黒木の母の雰囲気が和らいだのが伝わってきた。

(本当に、お父様のこと、大好きなんだー。でも、人に言われるのは照れくさいのかな?なんだか、カワイイ)


それきり、口をつぐんだままだった黒木の母が、つと立ち止まった。
縁側に面した障子を開けると、8畳ほどの畳の部屋に、客用と思われる真新しい布団が、すでに敷かれていた。

「今夜はこちらで寝んで」
「ありがとうゴザイマス」
「以前は泰則の兄の部屋だったの。隣は泰則の部屋よ」
「あ、はい……」

黒木の母が見やったふすまが、黒木の部屋とつながっているらしい。
2人の仲を警戒してるはずなのに、よくこんな近くに布団を敷いたものだ――。
のだめの戸惑いが伝わったのか、黒木の母が言葉を継いだ。

「いくらなんでも、夜這いなんてしてこないと思うけど――。婚約して浮かれてるかもしれないし、注意しておくわ。恵さんもケジメをつけてね」
「も、モチロンです!もちろん……」
「泰則は今からお風呂なの。じゃあ、おやすみなさい」
「ハイ。オヤスミなさい」

黒木の母が部屋から出て行くと、他にすることもないのだめは布団に入った。
隣が黒木の部屋だと聞くと、ちょっとのぞいてみたい気もするが、ほろ酔いで長湯した後だけに、一度布団に入ってしまうと体を動かすのがおっくうになった。

(あー。ふっかふかで気持ちイイ……。このまま、寝ちゃいそう……)

そして、のだめはあっさり夢の世界に行ってしまった。




眩いばかりに明るい舞台の上で、のだめは合唱団員と共に歌っていた。
今年の定演曲なのに、高橋ではなく、今はドイツにいるはずの千秋が指揮をしている。
その時、黒木が一歩前に出て、ソロのフレーズを歌いだした。
のだめが、その甘い歌声に聞き惚れていると、黒木が歌い終わった瞬間、ソプラノのみんなに前へと押し出される。
なぜか、卒業したはずの多賀谷彩子までいて、「さっさと行きなさいよ」とブーケを手渡された。
気がつくと、着ている舞台衣装が、ウエディングドレスに変わっている。

『あの……』

黒木と向かい合ったのだめが、どうしたらいいかわからず立ちすくんでいると、黒木にぐっと抱きすくめられた。

『恵ちゃん、愛してる――』
『く、黒木くん!お客さんが、みんな、見てマス』
『それでは、誓いのキスを――』

指揮台に立っている千秋が、神父の格好で厳かに言い渡す。
周りの合唱団員やお客からは、キース!キース!とキスコール。
黒木の指がのだめのおとがいにかかり、息遣いが感じるまで、唇が寄せられる。

のだめが覚悟を決めて、目を閉じたその瞬間、黒木の母の声が天から降ってきた。

『ふしだらは許しません!』
『ハイッ!』




あわてて目を開けると、演奏会も合唱団員も消えうせた。
ただ、目の前に黒木の顔があるのは、そのままだった。

「あれ?まだ、夢……?」
「起こしちゃったね。ゴメン」

浴衣姿の黒木が、寝ているのだめに覆いかぶさるようにして顔を覗き込んでいた。
黒木の髪がまだ生乾きで湯上りな直後なところを見ると、のだめが眠っていたのはそんなに長い時間ではないようだ。

「どうしても、話がしたくて――。ずっと、2人きりになれなかったし」
「あ、じゃあ、起きますカラ……」

のだめが起き上がろうと上体を浮かすと、黒木がのだめの背を支えるのに手を差し伸べた。

「あ、ありがとう……」

のだめが起き上がっても、黒木はのだめの体に回した腕をそのままに、じっとのだめを見つめている。
濡れた黒い髪が無造作にかきあげられた黒木は、浴衣姿なのも相まって、のだめを落ち着かなくさせる雰囲気を漂わせていた。
そんな黒木に目を細めてじっと見つめられ、胸の動悸が激しくなったのだめは、目をそらして、照れ隠しに夢のことを話し出した。

「い、今、ヘンな夢見て――。千秋先輩が定演で指揮してて、神父に変身して、舞台の上で誓いのキスを――とか言うんですよ!めちゃくちゃでしょ?」
「誓いのキスって、誰と?」

黒木がかすかに眉をしかめる。
ヘンな誤解をさせてしまったかと、のだめは慌てて付け加えた。

「黒木くんとのだめデスよ!黒木くんはタキシードでのだめはなぜかウエディングドレスで、彩子さんがブーケを……」
「じゃあ、夢の続きをしようか?」

のだめの言葉を遮った黒木は、少し顔を傾けて、のだめの唇に自分のを重ねた。

「んっ……」

触れるだけの優しいキスが、どんどん深く激しくなっていく。
ぬるぬると舌を絡ませ、吸い上げられて、のだめは頭がぼうっとして、体に力が入らなくなってきた。
のだめがくったりと力を抜くと、黒木はその体をゆっくりと横たえ、ようやく唇を離した。
混ざり合った2人の唾液が、のだめの口の端からつーっと零れていく。
黒木はのだめの口から零れた唾液を舐めとり、そのまま首筋、鎖骨へと舌を這わせていった。

「あぁ……はぁ……」

黒木の舌がたどるところすべて、ビリビリと電流が走る。
身悶えるのだめを押さえつけつつ、黒木の手は浴衣の胸元に手をかけ、力任せにはだけさせた。

「やぁ……っ!」

突然胸を露わにされ、のだめはとっさに手で胸を隠そうとするが、やんわりと黒木に手をつかまれ、布団に縫いつけられてしまった。
黒木の舌は、遮るもののない胸の谷間をたどり、ぷっくりと膨らんだ先端に絡みつく。

「あぁぁんっ!」

びりびりっと体を駆け巡る快感に、のだめはきつくのけぞった。
黒木は、唇できゅぅっときつく吸い付きながら、舌はぬるぬると甘く絡ませてくる。
そして、上目遣いに、乱れるのだめの反応を、余すところなく観察していた。

「愛してるよ、恵ちゃん」

大好きな甘い声で囁かれ、その吐息を受けた胸が、ざわりと疼く。
乳首を転がすように、ピチャピチャと音を立ててしゃぶられて、のだめは悩ましく体をくねらせた。

「あ、ぁんっ、くろきくぅ……っ!」
「可愛い……。本当に、可愛いよ。恵ちゃん」
「やぁっ、だ、だめっ……」
「嫌そうには見えないけど?」
「だって……声が……聞かれたら……」
「大丈夫。両親の部屋は、ずっと離れてるから」

敏感な乳首を執拗になぶられ、のだめは声を殺しながら、快感に身を震わせた。
のだめが抵抗しなくなったのを見て取ると、黒木はおさえていたのだめの手首から手を離し、身悶える度に揺れる胸を鷲掴んだ。

「あぁ……柔らかい……」
「はぁ……ぁっ……はぅ…んっ……」

黒木は手に余るのだめの豊かな胸を卑猥に掴みあげ、舌と指を駆使して責めさいなむ。
のだめは、荒い息を吐きながら目を潤ませて、されるがままになっていた。
黒木は、のだめの様子に満足げな笑みを浮かべながら、手をのだめの脚に伸ばした。

「全部欲しいよ。止められない」

太ももを撫でさすっていた黒木の手がショーツに潜り込み、指が前後に動かされる。

「ああああっ!」

体を突き抜ける快感に、のだめは背をのけ反らせた。

「もう、こんなに、なってる……」

黒木の動かす指の先から、ぬちゃぬちゃといやらしい水音がする。

(どうしよう!汚しちゃう!)

快感に溺れて目を潤ませていたのだめは、急に我に返った。
これ以上触れられては、借りた下着を濡らしてしまう、と焦ったのだめは、力を振り絞って、黒木を思い切り突き飛ばした。

「やっ!ヤメてっ!」
「どうして……」

不意を突かれて尻餅をついた黒木は、のだめに拒否されたことに呆然としていた。
のだめの様子から、すべてを許されたものと思い込んでいたから。

「お母様に、ダメって言われたでしょ!」

のだめは跳ね起きると、黒木から距離をとって、乱れた浴衣を直しだした。

「あんなの、母の口癖だし……。本当にそう思ってたら、隣に寝かせたりしないよ」
「それだけ信用されてるってことじゃないデスか!のだめ、お母様のこと好きだから、裏切りたくアリマセン!」
「へぇ……。意外だな、あんなに愛想のない母なのに」
「そう見えるだけデス!のだめは好きですよ、ああいう人!」

まさか、千秋に似た性格だからとは言えないが。
しかし、のだめの言葉に黒木はいたく感動したようだ。

「嬉しいよ。恵ちゃんは天使のようだ。君がいるだけで、この家すべてが、いい雰囲気に変わっていく――」

黒木が熱っぽい目でにじり寄ってくるので、のだめはシッシッと手で追い払った。
近くに寄ったら、またサカリがついて、何をされるかわかったものではない。

「そんなに、嫌なの。僕のこと……」

のだめに邪険にされた黒木が、しょぼんと肩を落とす。
こんな風に落ち込まれると弱い。
とてもつっぱねられない。

「嫌じゃないデスよ、大好きデス。結婚したいくらい。でも、あんな風にされると、我慢できなくなるし……」
「だったら我慢しなければいいだろう?父だって、差し上げましょうって言ったんだし、僕はもう、君のものだよ」
「のだめのもの……」
「そうだよ。君のためなら何でもするから!」
「ふむ……」

のだめは、じりじりと布団に戻ってきた。
黒木が、しめしめとばかりに、近寄ってきたのだめの手を握りしめる。

「のだめ、黒木くんがあんなことするから、興奮しちゃって……。このままじゃ寝られそうにないんですけど、責任とってくれマス?」
「もちろん!全力をかけて!」
「なら、歌って」
「はぁ?うた、う……?」
「のだめ、目が冴えちゃったから、子守歌代わりに。ね?」

面食らう黒木を尻目に、のだめはまた布団にもぐりこんだ。
黒木が、恨めしそうに、のだめをにらんでいる。

「一人で寝ちゃう気?」
「ええ。もう、遅いし」
「もう、襲わないから、せめて一緒に寝させてよ」
「そうですねぇ……。上手に歌えたら、考えてアゲマス」
「本当に?!」

黒木はのだめの手を握ったまま、姿勢を正した。
深く息を吸うと、遠くへ響かすように口を開く。

「Beautiful dreamer, wake unto me――」

ブランクを感じさせない伸びやかな甘い声が、メロディを紡ぐ。
奇しくも、夢で黒木が歌っていたのと同じ歌。

「Beautiful dreamer, out on the sea ――」

いつにも増して官能的な声が、のだめの体の芯を揺さぶり震わせる。
朗々と歌い上げる黒木の姿は、今日一番輝いている――と、のだめはうっとりと聞き惚れた。

「どうだった?」

歌い終えた黒木が、期待を込めた目で、のだめを見つめる。

「素敵デシタ。結婚したら、いつでも歌ってくれる?」
「君の望むままに。――で、いい?一緒に寝ても」
「しょうがないデスねぇ。上手に歌えたから、許してアゲマス」
「やった!」

黒木が嬉々として掛け布団に手をかけたその時、障子の外から声がかけられた。

「入っても、いいかしら」
「か、かあさん?!」
「お母様?!」

のだめがあわてて飛び起き、黒木が後ずさりしたところに、黒木の母が戸を開けた。

「取り込み中のところ、ゴメンなさいね。寝ていたら、枕元に置いていこうと思ってたんだけど――」

黒木の母が差し出したのは、のだめの着ていた洋服一式。
乾燥機で乾かして、アイロンまでかけてあった。
のだめは慌てて布団から抜け出し、洋服を受け取った。

「あ、ありがとうございます!すっかりお世話になって――」
「いいのよ。洗って乾かしたのは機械だし、たいした手間じゃないわ」

きらっと、黒木母の目が光る。

「泰則さん、歌が上手なのねぇ。聞き惚れちゃったわ」
「いいえ……それほどでも……」

黒木は冷ややかな母の視線から、必死に視線を反らす。
のだめは、一体いつから聞かれていたのかと、気が気でない。

「スイマセン……眠れなくて、子守歌を歌ってもらってたんデスけど……。うるさかったデスか?」
「いいえ。部屋の前に来たら、聴こえてきたのよ」
「じゃあ、聴こえたのは歌の途中から?」
「そう。最初から聴けなくて、残念だわ」

どうやら、アブナイところは聞かれていなかったようだ。
それでも、あと少し早く来ていたらふしだらの真っ最中だったかもしれないと思うと、冷や汗をかくのだめ。

「さあ、もう遅いし、泰則さんもおやすみなさい」
「はい……」

黒木はしぶしぶ立ち上がり、自分の部屋に続く襖を開けた。
肩を落とす黒木の背に、母の凛とした声が、追い打ちをかける。

「ちゃんと自分の部屋で寝るのよ。約束できるわよね、泰則さん?」
「はい……」
「せっかく結婚が決まったのに、早まったことをしでかして、台無しにしたくないものね?」
「……」

黒木の行動などお見通しな母に釘を刺されて、2人ともぐうの音も出なかった。
結局この夜の母の言葉に呪縛され、2人は一線を越えることなく、結婚式を迎えたのだった。


- continue -

【2013/05/25】

ようやく「夢見る人」の章終了です!そして新婚編へ続きます――。

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